日本一周の旅〜カルぺ・ディエム〜

元保育士が、自転車で日本一周します!

北海道観光

いよいよ北海道へ。

朝一でフェリーに乗りました。乗っていて少しだけ船内を歩き、戻ってきたらすぐ寝ました。ただ座ってると軽く酔いそうだったから(笑)


1時間半の道のりだったのであっという間に着きました。

アナウンスで、車で乗船したお客さんは先に降りるので〜!徒歩にて乗船したお客さんはそのあと降りるので〜!というのが流れ、もう降りるのかと少しドキドキ。

車両とも自転車と言ってなかったし、「車で乗船した方は」という言い方だったので、自分は自転車を置いた後に歩いての乗船だったから、自転車はあとなのね〜と思って、早く北海道を観光したかったからソワソワしてました。

そしたら、自転車で乗船のお客様ー!って叫んでる声が聞こえて、何事かと思って重い荷物を持ちながら歩き回るもその人は見つからず、船を降りるために使うはずのエスカレーターは閉まってるしで困惑してたら、アナウンスしてた乗務員が来て、早くしてください!と…。ちょっと前だったら確実に苦情言いに行ってましたわ。自分も勘違いしたのもいけなかったけど、その後の対応はやっぱり納得いかないです。

今日のアナウンスした男性だけかもしれないし、今後放送の仕方を変えることを願いますが、今後自転車などで乗船する方は気をつけた方がいいかもしれないですね。


気分は切り替えて走らせていたら、後ろからママチャリに乗ったおじさんが、チャリチャリチャリチャリーン!ってベルをすごい勢いで鳴らしてきて、また何事かと思って止まったら、ちょっと待てて!ってコソコソなにか書き出したんです。書き終わったと思うと、賞状、あなたは!という表彰台でするやり取りをしてくれ、北海道・函館通過証明書をもらっちゃいました。


今日は、五稜郭、函館奉行所→函館ラーメン→五稜郭タワー→ジェラート→土方歳三最期の地碑→青函連絡船記念館摩周丸→金森赤レンガ倉庫→ラッキーピエロ→赤い靴の少女像→八幡坂→日本最古のコンクリート電柱→坂本龍馬記念館→操車塔→新島襄外国渡航の地碑と、たくさん観光しました。


吐く息は白くて、寒さもありますが、それ以上に風が冷たくて凍えました。聞いた話では、今日明日は、地元の人でも寒いって感じるくらいらしいです。


五稜郭と函館奉行所。函館奉行所はペリー来航以降、外国との交渉に備えて造られ、五稜郭はその函館奉行所を守るために作られたそうです。

また、五稜郭は日本初の西洋式城郭で、徳川幕府の命を受けた武田斐三郎が設計を手がけました。

時は進み、旧幕府軍は、江戸城が無血開城してから食料や住む場所などに困っていました。榎本武揚や松平太郎たちが新天地を、蝦夷地を開拓しよう!となり、土方歳三たちを引き連れて船で向かいました。

そこで、新政府軍は討伐軍を派遣し、箱館戦争につながっていきます。そこで旧幕府軍の拠点としたのが五稜郭。一進一退で戦い、最終的にここで籠城するも、土方歳三が戦死すると立て直しは難しくなり、ついに榎本武揚たち幹部が降伏して箱館戦争と、そして戊辰戦争全体が終結しました。


↑五稜郭内にありました。こんなに飲み口いります?笑


一旦、函館ラーメンを食べました。


そして五稜郭タワーです。ここからの景色はいろんなところが見渡せるし、何より五稜郭を上から見られるのでより感動するものがありました。高いとこダメだったのですが、怖さはありつつぜんぜん平気でした。

↑奥に見える山が函館山です。


ハスカップノルド味のジェラートを食べました。


土方歳三最期の地碑です。箱館戦争の末期、土方歳三が銃弾に倒れたとされる一本木関門跡の近くの場所にありました。


青函連絡船記念館摩周丸。歴史を感じる展示も多く、操舵室や無線室も入ることができました。詳しかったらもっと楽しめる場所だと思いました。

洞爺丸事故についても詳しく展示してありました。台風の直撃を受けて沈没し、死者・行方不明者はあわせて1155人で、日本海難史上最大の事故だそうです。知りませんでした。


金森赤レンガ倉庫。やっぱり横浜を思い出します(笑)


教えてもらったラッキーピエロ。函館に何店舗あるんだってくらいありました(笑)これなら函館だけじゃなくてもっと全国的に展開してほしいです。


たまたま見つけた赤い靴の少女像。


映画のロケ地でもある八幡坂。自分もそうですが、撮影する観光客が多いです(笑)


日本最古のコンクリート電柱。


操車塔。説明書きに、このキノコのような建物は操車塔といい…と(笑)


坂本龍馬記念館。なんで北海道にと思い、来ちゃいました。

坂本龍馬は、幕府の解体で職を失う若い武士たちのエネルギーを蝦夷地の防衛と開拓に向かわせようという計画を立てていたそうです。

摂津の浪士たちと黒竜丸で目指そうとするが目前で池田屋事件があって断念したり、大州藩から借りたいろは丸で目指すが紀州藩の船に衝突されて沈没したりと、うまくいかず、そのまま開拓の夢は叶わなかったそうです。


新島襄外国渡航の地碑。新島襄は、吉田松陰の外国渡航の失敗を考慮し、この地を選んだそうです。元の名前は新島七五三太(しめた)で、航海中の船長からジョセフという名をもらい、略して襄(じょー)になったそうです。


カラーマンホールもたまたま見つけたのでパシャリ。アクロス十字街にすべて飾られていました。全部で4種類あるみたいですが、残念ながら最後の一つが見つかりませんでした。

↑見つけたもの

↑展示されていたもの


路面電車も新鮮でした。でも道路が凸凹していて自転車乗りには辛いですね。


そして飲み。

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