がんばって移動したからこそ
朝方は雨が降っていましたが、少し待つと止んで青空が少しずつ見えてきました。その後雨予報はなく、ラッキーと思って出発しました。
海沿い→山→海沿いと進み、最初の海沿いは16kmくらい風強すぎでぜんぜん進まず。くねくね道だったので風の向きもちょこちょこ変わり、向かい風になったり横風になったり…。話には聞いていましたが、北海道の車はスピード出しすぎでさらに風にあおられました。
山道に入ってからは、なぜかポツポツと…。小雨だし、風も山が遮ったのか弱まる場所もちらほらあり、登りも思ったほど大したことなかったからよかったものの…。
最後の海沿いはまた強風。場所によっては、波の水しぶきがこっちまで飛んでくるし、そうでなくても、潮でベタベタするし、恐らくその影響で霧もかかっていました。
終始、何かしらの辛さがありました。まだ北海道に入ってから始まったばかりなのに、洗礼でかね…?笑
気を取り直して…
黒糖蜜漬けどーなつ、北の豆あんぱん→伊能忠敬の像→北海道最南端、白神岬→マグロ山かけ丼→福山城→光善寺→龍雲院→法憧寺、松前藩主松前家墓所
黒糖蜜漬けどーなつ、北の豆あんぱんを食べました。
伊能忠敬は、北海道の測量を福島町吉岡から開始したそうです。たまたま像を見かけました。
伊能忠敬といえば、日本一周をしていてたまに思い出すことや考えることがあって、
自分は真っ直ぐだと思って普通に走っている道も、平坦だと思って走っている道も、細かく見ると少しずつ変化していることが多いんです。あんなに細かく的確な地図を作るために、すごく地道で大変なことだなと感じていました。また、自転車で進むのも大変なのに、測量するための道具を協力して持ち歩いて進むとなると、さらに大変ですよね。
でも苦労して作り上げたからこそ、いつまでも評価されるものになったんだと思います。
人は誰でも、チャンスを逃さず決断し、そのための環境を整えれば、何かを成し遂げることができるんですね。
北海道最南端である白神岬に到着。ここを知らずに走っていたので、危うく通り過ぎるところでした(笑)
マグロ山かけ丼を食べました。
福山城は、日本最後に築城された日本式城郭です。
初代藩主松前慶弘の福山館を造り、蝦夷地支配の拠点としていました。
その後、外国船に備え津軽海峡の警備強化を図るため、幕府は松前藩に命じて、13代藩主松前崇弘が5年かけて築城した。当時は、新しい城を造ることが全国的に禁止されていたため、異例なことでした。
最期は、函館戦争にて、旧幕府軍の攻撃を受けて落城しました。
その松前になるまでにもたくさん歴史がありました。松前家の祖である武田信廣は、コシャマインの戦いを平定し、蠣崎の養子となりました。その後、いくつものアイヌ民族との戦いを経て、蝦夷地の覇者へと成長します。そして、豊臣秀吉と徳川家康にうまく近づき、蠣崎慶広の時、松前に改姓となりました。
そのアイヌ民族とのことや資料も展示してありました。
光善寺。
ここには血脈桜というものがありました。「伝説」と書いてあったので、寄ってみました(笑)要約しづらかったので、そのまま載せます。
義経山と刻まれた石碑もありました。義経山欣求院の山号であると言われていて、源義経自身が矢尻で刻んだとの伝承が残されています。
光善寺八重桜
龍雲院。
蝦夷霞桜。
法憧寺。
御霊屋には松前家累代藩主の位牌を祀っています。
また、松前藩主松前家墓所もありました。松前の始祖から、歴代藩主とその妻子たちが埋葬されている墓所です。
ここら一体は桜がすごくきれいでした。種類も豊富で、この時期に見頃なものが多いみたいです。
↑糸括
↑雨宿り
↑御衣黄
↑染井吉野
↑南殿
↑松月
移動中に、何度、目的地手前で休めるところはないかと探したことか…。しかし、うまい具合になく、天気も良くなかったのもあって、がんばって進みました。でもその甲斐あって、時間ギリギリまでたくまで観光することができました。