日本一周の旅〜カルぺ・ディエム〜

元保育士が、自転車で日本一周します!

宮城観光

今朝は一段と寒く、寝袋から出たくありまさんでした。聞いた話では、こっちの方ではこれくらいが普通なんだとか。昨日一昨日の暑さは稀らしく、昨日は特に、4月として観測史上最も気温が高くなったそうです。

今日はとことん観光しました。仙台駅→青葉神社→大崎八幡宮→青葉城、資料展示館→瑞鳳殿です。


まずは仙台駅に着きました。

天気予報ではくもりだったのに、小雨だけど降ってきました…。急遽一眼の防水カバー買い、これで、雨の中でも心置きなく撮影できます。


そこから青葉神社へ。旧藩士が、藩祖伊達政宗(武振彦命)を祭神として創建された神社です。静寂としていて、いい雰囲気でした。


大崎八幡宮。政宗によって創建されました。平日の雨なのにまぁまぁ人がいました。晴れていたらわんさかいたんですかね…?これならゆったり見られたので、降っててよかったのかもしれません。

そういえばダルマ。仙台のは青くて目が入ってるんですね。調べてみると、仙台張子の一つで、『松川だるま』と言うそうです。庶民の心のよりどころになるようにと、伊達藩藩士・松川豊之進が創始したとのこと。


次は青葉城。あまり調べず何の気なしに行ったのですが、間違っていました。ここは自転車で来る場所じゃない(笑)と言いつつ、途中まで来たし、諦めるのも嫌だし、自分の日本一周の定義として、乗り入れ禁止でなく、自転車で行けるとこは危険でない限りは漕ぐ、と決めているので、そのまま進みました(笑)坂はきついし、一回停ると進み出すのに苦戦するし、後ろの荷物が重いので下手したら前輪が浮くしで、やっぱり我ながらバカだと思いましたよ。

写真だと傾斜がよくわからないですね…笑


やっと入口までつき、天然の要塞ということを身にしみてわかりました。

ここは、政宗によって築城し、270年くらいに渡り伊達氏代々の居城でした。

資料展示館の説明がわかりやすかったです。その中の一部を…

伊達成実は、伊達家随一の猛将と言われていました。成実の甲冑…兜には、毛虫をかたどった前立をつけていました。これは「決して後ろに退かない」という毛虫の習性にあやかったものだそうです。また陣羽織にも将棋の香車があり、これも同じ意味で施され、一貫した意志がよくわかります。

茂庭綱元は、政治手腕に優れた能吏と言われており、なんと、三代に渡り仕えた伊達氏の重臣として仕えたそうです。それというのも享年91歳で、代々長寿の家系であったそうです。そのため、政宗の出生から死没までを見届けた唯一人の将でもありました。

ちなみに仙台という地名は、元々の「千代」を、「仙人の住む高台」ということを由来して「仙台」になったそうです。


↑ずんだシェイク。


最後は瑞鳳殿。伊達家の霊屋がありました。

↑瑞鳳殿は伊達政宗。

↑感仙殿は2代目忠宗。

↑善応殿は3代目綱宗。

↑瑞鳳寺は、政宗、二代忠宗、三代綱宗の位牌が安置されているお寺です。


鳳陽という宮城のお酒を飲みながら、牛タンを食べました。厚切りなのに、すごく柔らかくておいしかったです。もっと食べたかった…。


夜にはいろいろとライトアップされてるんですね。

向かい風はつらい

朝、出発する身支度をしていたら、通りかかった人から、羽生結弦のパレードがあるという情報を教えてもらいました。予定的に時間が合わなかったので行けませんでしたが、後々、お店に入ってご飯を食べている時に、テレビでインタビューの様子を見ることができました。

いきなり話は逸れましたが、白石城→歴史探訪ミュージアム→武家屋敷へ行き、津波の被災地を見学しました。



今回は津波のことや放射能も少し見学し、昨日と同じで、その時のことを思い出したくない方もいると思いますし、(あまり大したことは書きませんが)自分の文章の書き方で気に触ることもあるかと思いますので、一番最後に書きます。また、その文章を書く前に、


↓ここから津波や放射能について書きます

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と記すので、見たくない方は飛ばしてください。よろしくお願いします。



はじめの、白石城へ行くまでに20kmありました。田畑に囲まれたところは何も遮るとこがないから容赦なく突風が襲ってきて、砂埃や虫も飛んでくるから目が痛い…。山に囲まれたと思ったら、向かい風だし、長い上り坂だし、勾配きついし…。天候はというと、カンカン照り…。自分がもし敵なら、今は自転車だけど、当時の移動手段は馬や徒歩で、重い甲冑や武器を持っていたのを差し引いても、戦う前に戦維喪失ですね。

着いたら、何やら掛け声やら音楽やらで活気づいていて、なんだ?と思い覗いてみると、天守閣前でよさこいのイベント?をしていて、各グループが踊りを披露していました。

白石城は、伊達政宗の重臣である片倉小十郎景綱の城です。

景綱のエピソードはいろいろ…

・謀略や内政にも優れ、智の片倉景綱と言われており、それだけでなく武勇もあったそうです。そのため、秀吉から引き抜きの話がありました。

・幼少時に疱瘡(天然痘)を患った政宗は、右目を失明して眼球が飛び出ていたので、それをコンプレックスに感じ、暗く内向的な少年でした。そこで景綱は、政宗の右目を短刀でえぐりました。

・景綱の妻が妊娠した際には、主君政宗より先に子宝に恵まれては申し訳ないと思ったそうで、息子を殺そうとしましたが、それを聞いた政宗が手紙での説得により留まりました。

・糖尿病らしき病でかなり太ってしまい、政宗に大きい鎧をもらいました。

などなど、彼にはいろんな珍エピソードがあるんですね。

ちなみに、続100名城スタンプは集めてなかったのですが、せっかくだし来た記念にもらおうと思い聞いてみると、スタンプ帳にしか押せません、と…。スタンプを集めている方、他のところは、聞いたら、別に入館料払わなくても押せるよ?とか、この紙で練習してみな!とか言ってくれるとこがほとんどだったのですが、スタンプを集めていてもしここに来る際は、忘れないよう気をつけた方がいいですよ。


歴史探訪ミュージアムでは3D上映をしていて、奥羽越列藩同盟の秘話『賊にあらず』をちょうどやっていたので、見てきました。戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟と明治新政府が戦い、お互いが誇りと正義を持って戦ったんだよ、という内容でした。第三部まであって、続きが気になります(笑)


武家屋敷は、旧小関家のあったところで、中級家中の屋敷だそうです。素朴な造りで、いい雰囲気でした。


仙台の方へ向かう途中、山の上からひょっこり観音が顔を出していました。

その近くに、船岡城址っていうのがあったのですが、遠くから見た感じ、遠回りしたり山道を登る感じだったので、遠くから写真だけで辞めました。


昼はとっくに過ぎましたが、昼食にラーメン。普通盛りでこの量だったので驚きです。上に乗ったもやしだけでお腹いっぱいになりました。でもがんばって全部食べましたが、おいしかったのですが、自転車乗る時の態勢的に苦しかったです(笑)







↓ここから津波や放射能について書きます。見たくない方は飛ばしてください。よろしくお願いします。

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被災地を見に行きました。

まず、宮城にもまだ放射能の影響で土を取り除く作業をしていました。また、トラックで運んでいくのも見かけました。

↑写真は川のですが、山の方でもやってました。


海から10kmないくらい離れた場所です。田畑だった場所もあると思いますが、それと区別がつかないほど家がポツポツとしかないありませんでした。


海から1km県内に来ると、周りはすべて平地。たまーに建物が建ってるくらいです。

↑道を挟んで左右の写真を撮りました。

↑木が根元から折れたり根っこからひっくり返っています。

↑ここまで高く津波が来たことを記してます。

↑そして、海。ここから押し寄せたんですね。

↑復興に向けて。


自転車を走らせ、辺りを見ながら考えていると、息苦しく胸が重たくなり、自然と鳥肌も立っていました。この土地に住む一人ひとりが当時の壮絶な体験を抱えており、現状、ここまでの被害で当時の地震や津波のことを考えると、怖かった!では到底表現しきれない思いが溢れるに違いありません。


昨日今日とで、東日本大震災について書きました。最後になりましたが、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

やっと宮城入り

今回は原発や放射線についても、深くは突っ込みませんでしたが、通り道や少し外れたところを見学しました。その時のことを思い出したくない方もいると思いますし、(あまり大したことは書きませんが)自分の文章の書き方で気に触ることもあるかと思いますので、一番最後に書きます。また、その文章を書く前に、


↓ここから原発や放射線について書きます

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と記すので、見たくない方は飛ばしてください。よろしくお願いします。



今日は霞ヶ城(二本松城)→なみえ焼そば→福島駅で移動しました。


霞ヶ城は平山城で、山の上にありました。こりゃあ攻めるのは大変です。今日は暑さもあったから、受付の時に貰ったお茶がなかったらと思うと…危なかったです。

攻めるといえば、伊達政宗もこの城を攻めたそうです。城主二本松義継は政宗の攻撃を受けて降伏し、輝宗のもとに出向きました。しかし、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとし、これを聞きつけた政宗は、義継を討ち取るも、輝宗も射殺してしまいます。政宗はすぐに二本松城攻めを開始しましたが、籠城され、援軍の佐竹義重と相馬義胤たちが加勢したこともあり、政宗を撃退します(人取橋の戦い)。度々の進軍で、途中から内通者が出たこともあり、二本松氏は滅亡しました。

↑その人取橋の戦い跡が、郡山から向かう途中にありました。

↑少年隊と、我が子を思い家紋の肩印を縫いつける母の像です。

↑来る途中に大壇口古戦場跡があり、木村銃太郎隊長をはじめ、二勇士の碑がありました。

↑洗心亭

↑笠松

↑日本三井戸の一つである日影の井戸です。日本三井戸なんてあるんですね。


B級グルメのなみえ焼そばがあると受付で教えてもらい、食べました。2人前のものを注文し、ボリューミーでおいしかったです。


坂の多い道を超え、福島駅に着きました。


宮城に向かう途中、その時が16時半だったからよかったのですが、道に街灯がひとつもなく、木や竹林に囲まれてる狭い道も多く、抜けるまでも長い…。暗くなっていたらまずかったです。暗くなる前に抜けられてよかったです。

そしてようやく、宮城県に入ることができました。

気づけば97km走っていました。残り3km適当に移動しようかとも思ったのですが、ちょうどいい感じで寝床を見つけたのでやめました。

100km近く走ったのにあまり疲れを感じませんでした。と書いているそばから寝落ちしてました(笑)疲れは出ていたんですね…。








↓ここから原発や放射線について書きます。見たくない方は飛ばしてください。よろしくお願いします。

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多大な被害を出した東日本大震災と津波、放射線の事故…。神奈川はというと、あの日、大きく揺れ、物が落ちたり建物にヒビが入ったり…ほとんどがその程度で済みました。復興などにもさほど時間がかからずでしたが、また、被災地の状況はテレビでは見るものの、正直、目を逸らそうとしていたのかもしれません。

震災から7年が経ち、未だにその痕跡が残っていました。たまたま話しかけてくれた方が教えてくれたこともあり、中には、放射能のことは何も気にせず、そこら辺の山菜とか取って食べてる、という方もいました。

↑工事している場所です。

↑汚染された土の入った袋です。ここだけでなく、集められた袋が何ヶ所かにズラーッと並んで置かれていした。

↑緊急仮設住宅跡地です。今はもうここには誰も住んでいないので、撤収しているそうです。


サイクリングロードを通った時には、阿武隈川も汚染工事をしていました。また、おそらく田畑も掘り返したことで、少し荒れているような感じでした。

避難解除されている場所とはいえ、まだまだ工事しているところも多く、場所によっては袋もたくさん積まれていました。

原子炉付近では、今もなお入れない場所や車だけしか通れないところも広い範囲でありました。早く復興することを願いたいですね。