大阪観光②
大阪駅
大阪天満宮。大宰府への途次に、菅原道真がここに参拝に来た由縁から、創建されたそうです。
↓楼門
↓本社
↓大将軍社
大坂夏の陣・今福、蒲生の戦い跡です。この場所を見つけた時、周りはゴミ置き場になっていて、悲しさを感じました。
ここは、いろいろな戦いが繰り広げられ、その中の一つである、今福・蒲生の戦いです。徳川軍の佐竹義宣と上杉景勝と、豊臣軍の木村重成と後藤基次が戦います。
恥ずかしながら豊臣軍の二人、説明書きを読んでいてはじめて知りました。
調べてわかったこと...
木村重成は、大坂の陣が初陣だそうです。死を聞いた大坂城の女子全員が泣いたと伝わるほど、美男子で、中身もイケメンだったそうです。
後藤基次は、黒田官兵衛に仕え、黒田官兵衛の死後は、豊臣方の大坂五人衆の一人に数えられ、武勇と知略を駆使して多くの軍功を残したそうです。
初戦は徳川軍の優勢でしたが、木村重成と後藤基次が援軍として部隊を引き連れて猛反撃したことで、佐竹義宣は追い込まれてしまいました。そこで、川を挟んだ先の鴫野方面から豊臣軍を攻めていた上杉景勝に援軍を求め、なんとか追撃を食い止めました。
結果的に、両者共に死傷者が続出し、決着はつかずに終わりました。
若宮八幡大神宮には、佐竹義宣の本陣跡がありました。
大坂城が建っていた場所か近くには、本願寺が建っていました。
石山本願寺は財力があり、また、この場所は貿易や交易の拠点として便利であったため、軍資金と場所を本願寺顕如に譲ってほしいと申し出ました。本願寺顕如は、5000貫の軍資金には応じましたが、場所はキッパリ断りました。
本願寺顕如は、比叡山、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、足利義昭、毛利輝元たちと手を結び、10年あまりに及んだ石山合戦を戦ってきました。
信長と本願寺顕如の大体の流れです。
長島一向一揆で小木江城を守っていた織田信興を攻められ、切腹し落城させられる
↓
弟の弔い合戦で、長島一向一揆をなんとか勝利を収める
↓
比叡山延暦寺を焼き討ち
↓
三方ヶ原の戦いで、信玄が家康を破るが、信玄の病死により難を逃れる
↓
足利義昭を京から追放し、室町幕府滅亡
↓
一乗谷城の戦いで朝倉義景を滅ぼす
↓
小谷城の戦いで浅井長政を滅ぼす
↓
伊勢一向一揆を平定
↓
長篠の戦いで、織田信長と徳川家康が武田勝頼に勝利する
↓
越前一向一揆を平定
↓
謀反した松永久秀を破る(自害する際に、信長が以前から欲しがっていた名茶器、平蜘蛛の茶釜と一緒に爆死した。ちなみに日本初の爆死)
↓
雑賀一向一揆で雑賀孫市を倒し、平定
↓
木津川口の戦いで毛利輝元を撃退
↓
石山本願寺の補給路を封鎖し、本願寺顕如は和睦を選び、信長の領土となる
並行して動いていたりして、多少前後や抜けていることもあるかもしれませんが、これだけ壮絶な戦いを経て、領土を勝ち取りました。しかし、その2年後に本能寺の変で自害することになります。
その後、秀吉が大坂城を築城し、居城や豊臣政権の本拠地となりました。
秀吉の死後は、息子の秀頼と母の淀殿と共に、城主として大坂城に移りました。
大坂夏の陣で、豊臣氏の滅亡とともに焼失し、秀頼と淀殿は自害しました。
家康は、秀吉が建てた大坂城を高さ数メートルの盛り土をして再建しました。そのため、現在見られる大阪城は、豊臣の城というよりは、徳川の城なんです。
↓青屋門
↓極楽橋
↓天守閣
↓蛸石
↓桜門
↓その他
↓石垣の上から見えました。
一乗谷城の戦い、小谷城の戦い、大坂の陣...これまで歩んできた歴史がどんどん繋がってくると楽しいなぁ~って、知ってることや写真で撮ってきた説明板を読み返しながら文章を作っているうちにこんなに長くなってしまいました(反省)石山合戦の後は簡潔にしました(笑)
法善寺には、水掛け不動があります。全身苔に包まれ、独特な姿をしていました。
道頓堀。人多過ぎです...。こんな自転車を押して来るような場所ではありませんでした。
一件目は、たこ焼きを食べました。
二件目は、豚平焼きとたこ焼きを食べました。
虫除けが切れたので新しいのを買いました。本気で守ってくれるとの言葉を信じます(笑)