いい時もある そうじゃない時もある
朝、荷物を整理しているとイヤホンがないことに気づきました。いつ落としたんでしょう?けっこう気に入っていたんですけどね。残念。
移動していると、車が少し先で停まっていてくれて、お金を融資してくれました。ありがとうございます。
篠山城は、家康の命で、藤堂高虎や近畿の主だった武将によって築かれました。天下統一の仕上げとして、大坂城城主の秀頼と西国諸大名を新しい政治体制で抑え込む必要があり、そのために丹波の交通上の要所であった篠山に城を築き、また大阪城包囲網の拠点を目的としていました。
天守や隅櫓は必要ないとの家康の意向で、外形にこだわらない実践向けの城を造りあげていました。また、火縄銃の狙える角度を広げるため塀が屏風折れになっています。
完全に出来上がっていなかったが、松平康重が入城してから、松平家や青山家が代々の城主となり、思い通りの役を果たしました。
↓三の丸お祭りの準備をしていました。
↓鉄門
↓大書院は二の丸あり、公式行事に使われた場所です。
↓二の丸庭園
↓青山神社は本丸に建てられ、青山氏の遠祖青山忠俊と12代藩主青山忠裕が祭神として祀られています。
↓天守台
次の場所まで移動ですが、風強すぎです...。台風の影響ですかね?でも、こっちの方は応援してくれる方が多くて、すごく励みになりながら足を進めることができました。
最後の峠越え。坂道は辛かったはずなのに、ちょっと前の自分でもこんなに速くは進んでないくらいのペーストで走ってました。完全にペース配分間違えました(笑)1/3過ぎたところで、肺が苦しくなってきて、さすがに休憩。調子乗りました(笑)
竹田城の歴史は、但馬の山名と播磨の赤松、丹波の細川との間で攻防している際、山名は、赤松と細川を攻めるための要として竹田城を拠点としていました。そこで家臣の太田垣光景が城主として入城していました。
しかし、織田軍の秀吉や弟の羽柴秀長によって、山名は追放されてしまいました。
次に入城したのが、羽柴秀長の家臣の桑山重晴でしたが、しばらくすると和歌山城に移ることになり、代わりに赤松広秀が城主となりました。
↓登山口
↓料金所からの入口
↓天守台
↓正門
↓南二の丸と南千畳
↓南千畳
この城は、ほぼ自然なままに残っている珍しい山城です。
また、秋から冬にかけて晴れた日の早朝には、朝霧が発生し、天空の城のような幻想的な景色が見られます。今回は時期的に見られませんが、それでも石垣、景色ともに行く価値ありです。
↓ちなみに天空の城、朝霧がかかった状態はこんな感じです。
↓今回のような、晴れた日の上からの景色。
↓下山ルート
↓表米神社には、相撲桟敷がありました。
竹田城の下には、お寺が4つ並んでいました。まずは善證寺。
常光寺は、初代城主である太田垣光景の供養塔があります。
勝賢寺は、赤松広秀の家臣である平位善右衛門の屋敷でした。竹田城9代城主である桑山重晴の長男・一重夫婦の五輪供養塔があります。
法樹寺は、竹田城が廃城した後、竹田城最後の城主である赤松広秀移住地でした。また、赤松広秀のお墓があります。
最近、日が暮れると寒いですね。これなら日中も涼しくなってほしいですね