日本一周の旅〜カルぺ・ディエム〜

元保育士が、自転車で日本一周します!

九州上陸

少し早くに起きて出発です。しかし、少し早く着きすぎてしまったので、この時間で洗濯しちゃいます。


フランシスコ・ザビエル像がありました。


ようやく開店になり、瓦そばを食べました。


食べ終わると、巌流島行きの船がちょうど出航の時間だったので、一緒に乗り込みました。

巌流島は、正式名称は、島が船の形に似ていたことから船島と言います。宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀をとって巌流島と呼ばれるようになりました。なぜ負けた方なのか疑問ですが...。

この巌流島の戦いを機に、決闘の聖地にもなっていて、アントニオ猪木とマサ斎藤によるプロレスの試合など、様々な決闘が行われました。

ちなみに、この島は明治以降に埋め立てをし、当時より3~6倍程度大きくなったそうです。また、人が住んでいたこともあるそうです。


洗濯物も、巌流島から戻ってくる頃にはほとんど乾いていました。


↓金子みすゞ顕彰碑。

↓上山文英堂本店跡地。一時住んでいた場所で、終焉の地でもあります。

↓黒川写真館跡。20歳の記念写真を撮ったといわれている場所です。

↓三好写真館跡。亡くなる前日に写真を撮った写真館です。


赤間神宮は、源平合戦で敗れわずが8歳で入水した安徳天皇を祀る場所です。

↓小泉八雲の怪談『耳なし芳一』の舞台でもあります。

↓ちなみに、壇ノ浦古戦場跡跡の近くでは、紙芝居では『耳なし芳一』を読み聞かせしてくれました。

↓平家一門のお墓。


壇ノ浦古戦場跡。下関の壇ノ浦の戦いで初めは平氏優勢でしたが、潮の流れが変わると次第に劣勢になり、敗北が決定的となりました。


↓天保製長州砲

↓壇ノ浦砲台跡


関門トンネルを歩いて福岡県へ。


関門海峡は、地形から複雑な潮の流れになっていて、時間などで潮の流れが変わるようです。そのため、分かるように方角・速さを示していました。写真ではわかりづらいですが、真ん中にあるボードのことです。


産湯井・平家の一杯水。ここには湧き水があったと伝えられ、昔は『産湯井』、壇ノ浦合戦後は『平家の一杯水』と呼ばれ、それを再現したものです。


↓門司港レトロ倶楽部

↓旧門司税関

↓ブルーウィングもじ。


この近くでまた紙芝居をやっていました。壇ノ浦の戦いについてのもので見ることに。

正直に言います。見に来なきゃよかった。

始まるまでに20分。それまで勧誘に時間を取ってなかなか始まらない。仕事だから仕方ないと言ってしまえばそれまでですが、先に来た客を放ったらかしって...。やっと始まったかと思うと、話の途中でもお構いなしで勧誘する。知っている内容だからよかったものの、全然内容が入ってきませんでした。4年間毎日のように絵本紙芝居を読み聞かせをしてきた側として、慣れすぎていて下手くそでした。それを商売としているのに残念でした。


焼きカレーとヴァイツェンを食べました。


タイヤ自体が薄くなっていて、最近のパンクの原因になっているので、新しいタイヤに変えることにしました。

今回のは、中に硬い素材(なんだか忘れました)が入っていて、パンクに強いそうです。他のと比べると厚みも全然違いました。ほんの少しだけ高かったのですが、今後を考えると買いです。寝床に着いてから、すぐに取り替えました。

絶景

起きて首を動かすと違和感が...。変な寝方していたみたいで、寝違えてました(笑)寝違えとか家でもしなかったので久しぶりでしたよ。


徒歩&ヒッチハイクの旅人と別れ、出発しました。台風が来るので今日から急ぎ早に進むそうで、これで当分は会わないかもです。ありがとうございました。


三矢の教えの像がありました。毛利元就が子である、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人に、一族の結束を説く逸話として知られています。三子教訓状が元になりましたが、矢に関する記述はないようです。


教えてもらった角島大橋に来ました。確かによく見る光景ですね~。時間を忘れられます。

写真を撮ったあと角島まで渡ろうと思ったのですが、片側が渋滞していたので、車道しかない道で走っていると確実に迷惑がかかると思い、断念しました。まぁ景色もきれいだったので満足です。


寝床まで走っているとヒーローがいました。

山口観光

朝から冷え込み、まさかの13.8℃...。夏とは思えない気温でした。

また寝床が一緒だった徒歩&ヒッチハイクの旅人と別れ、出発しました。


少し坂道を登っていくと、山口県に入りました。


次の場所まであと10kmってところで休憩です。味噌カツ定食を食べました。この味噌汁の中にそうめんが入ってました。

食べているところに、あそこに置いてある自転車お兄ちゃんの?この食べてるの奢ってやる!とご馳走になってしまいました。

しかも、その奥さんにお金を頂きました。ありがとうございます。


その後、おじいちゃんが話しかけてきてくれて、帽子を頂きました。また、その連れの方がいいですというお菓子を頂きました。


また、おばちゃんにお水を頂きました。


さぁ走ろうと思ったのですが、ふとタイヤを触ってみると、だいぶ空気が抜けていました。そうそう、走ってくる途中で走り心地変わったんですけど、こういうことだったんですね。急いでチューブを交換しました。穴は、針くらいの大きさが開いていて、タイヤからでもプシューって聞こえるくらいでした。


萩城です。毛利輝元が指月山麓に築城しました。山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城になってます。

↓天守台跡

↓志都岐山神社。旧本丸跡に歴代藩主を祀るために建てられました。

↓詰丸跡、指月山


旧厚狭毛利家萩屋敷長屋。毛利元就の5男である元秋を始祖とする毛利家の武家屋敷です。



ここからは誕生の地や旧宅が多かったので、行った順ではなく、人でまとめて載せます。



吉田松陰は、叔父吉田大助の急死により6歳で家督を継ぎます。吉田家は、藩校明倫館の山鹿流兵学師範をつとめる家柄であったため、もう1人の叔父の玉木文之進は、松陰を一人前の兵学者に育て上げるために厳しく教育しました。その甲斐あって、10歳で藩校明倫館の教壇に立ち、11歳の時には藩主毛利敬親の前で兵学の講義を見事に成し遂げました。

その後、黒船への密航を企てましたが失敗し、投獄。出獄後は松下村塾で教えていました。

最期は、日米修好通商条約に絡んで幕府を批判し、安政の大獄にて死刑となりました。

↓生誕の地

↓お墓

↓吉田松陰幽囚の旧宅


松下村塾。吉田松陰の叔父である玉木文之進が創設し、吉田松陰がこれを引き継ぎ、1年程教えていました。

身分に関係なく学ぶことができた場所で、吉田松陰が教えていた頃に、高杉晋作や久坂玄瑞といった幕末志士、伊藤博文や山縣有朋といった明治維新後の日本を作った偉人らの多くを輩出しました。


松陰神社。


吉田松陰歴史館。


高杉晋作は、松下村塾に入門し、松陰からの師事を受けます。その後、奇兵隊を結成し、尊王攘夷活動を展開していきました。

↓誕生の地

↓お墓


久坂玄瑞は、松下村塾に入門すると、吉田松陰に高杉晋作と久坂玄瑞を『村塾の双璧』と称し、その才能を高く評価していました。その後は、高杉晋作らとともに尊王攘夷活動を行いました。

↓生誕の地

↓お墓


吉田稔麿は、松下村塾で兵学を究め、吉田松陰からは、高杉晋作と久坂玄瑞に並ぶ「三秀」と評価されていました。

その後、奇兵隊に参加し、尊王攘夷活動を行っていきますが、池田屋事件にて討ち死にしてしまいます。

↓誕生の地


木戸孝允(桂小五郎)は、吉田松陰からの教えは受けましたが、松下村塾には通っていないようです。

剣術に長け、江戸三大道場の一つ、練兵館にて免許皆伝を得て、『練兵館の双璧』と称えられました。ただ、真剣を使った記録はほとんどないため、『逃げの小五郎』という異名がついています。

後に、初期明治政府の中心的メンバーとして活躍していきました。

↓旧宅


伊藤博文は、松下村塾で学び、尊王攘夷活動を行っていきます。後に初代内閣総理大臣となります。

↓旧宅

↓別邸


山縣有朋は、松下村塾で学び、奇兵隊に入団します。

明治維新後は軍人として名を挙げました。その後、内閣総理大臣となりました。

↓生誕の地


前原一誠は、松下村塾に入塾し、高杉、久坂らと学びます。後に倒幕活動に参加し、戊辰戦争にも参戦しました。

明治新政府にも入閣して活躍しましたが、政策方針を巡って山懸有朋、木戸孝允らと対立し、明治新政府から追われてしまいます。

その後、萩の乱を起こし、首謀者として処刑されてしまいました。

↓旧宅

↓終戦の地


松浦松洞は、松下村塾で学び、尊王攘夷活動を行っていきます。画家としても知られているそうです。

↓誕生の地


田中義一は萩で生まれ、内閣総理大臣になりました。

↓誕生の地


円政寺。

↓金毘羅社と天狗

↓日本一の石燈籠

↓幼年時代に、高杉晋作と伊藤博文たちが遊んだ木馬(神馬)。


世界遺産にもなっている、恵比須ヶ鼻造船所跡と反射炉にも行きました。

↓恵比須ヶ鼻造船所跡

↓反射炉


そしてまた歩き&ヒッチハイクの旅人と合流(笑)