日本一周の旅〜カルぺ・ディエム〜

元保育士が、自転車で日本一周します!

仲間と岩手観光

道の駅で朝食。ごはんみそ汁がおかわり自由で500円は安すぎ。ごはん4杯もお代わりしちゃいました(笑)


3人で平泉観光をしました。この旅の最中、こんな機会はもうあるかわからないし、何より一緒に行動できることがうれしかったです。そして、移動時も、駐輪時も、観光時も、誰かと一緒にいることがすごく心強いんです。一人で自分の好きなままに行動するのもいいのですが、こういうのもあり。

ちなみに、移動するルートとか全部任せきりで、頼りすぎちゃってごめんなさい(笑)


毛越寺→観自在王院跡→弁慶の足湯舟→金鶏山→かっこうだんご→厳美渓→達谷窟→中尊寺金色堂→金色棒のささみカツ→無量光院跡→わんこそば、と平泉を堪能しました。


毛越寺は、奥州藤原氏、特に藤原氏二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営された庭園です。

伊達氏の支配になり、政宗たちの旧跡の保護により、歴史的景観は整えられたそうで、政宗は東北の方でたくさん足跡を残していました。現在まで歴史が残ったのも、伊達氏が支配したおかげなのかもしれませんね。

ここには伝説があるみたいで、慈覚大師が東北巡遊の時に毛越寺あたりに来た時に道に迷ってしまい、下を見たら白い毛が続いていたので毛をたどると白鹿がうずくまっていたそうです。そしたら白鹿は急に消えて、白髪の老人が現われ、ここを霊場にしなさいって言ったのが、毛越寺の始まりで、名前の由来だそうです。

↑遣水

↑地蔵菩薩

↑出島石組と池中立石


観自在王院跡は、二代基衡の妻が建立したと伝えられる寺院跡です。先ほどの毛越寺内院は公的なのに対して、ここ観自在王院は私的な祈りの空間だったようです。


↑舞鶴が池

↑伝普賢堂跡

↑大阿弥陀堂

↑車宿跡


弁慶の足湯舟があったのでちょっと立ち寄り。


金鶏山は、当時は信仰のお山として大変重要な場所になっていたようです。けっこうな坂の上にありました。

入り口付近には、義経妻子の墓もありました。


かっこうだんごを食べに行きました。一人が、以前教えてもらったことを思い出したようで、「空飛ぶだんご」というものが見られるみたいで急遽行くことになりました。

「空飛ぶだんご」とは、お店から厳美渓の川を挟んで対岸の場所までカゴを送るということでした。

食べ終わってからお店の方に、「上あがって見てく?」と声をかけてもらい、2階のだんごを送っているところまで上がらせてくれました。しかもロープを引く体験までさせてくれました。貴重な体験ありがとうございます。いやー、これをだんごが完売するまで何往復もしなきゃいけないなんて大変です。

この厳美渓も景色最高でしたよ。寄り道しなければ見れませんでした。


達谷窟も、かっこうだんごに向かう途中で発見し、行くことになりました。

ここは、断崖絶壁に寄り添うように建てられており、すごく珍しい光景でした。

顔面大佛は、岩壁に刻まれたものです。高さ約16.5メートル、肩幅約9.9メートルの大きな像だそうです。亡くなった敵味方の霊を供養するために、源義家が彫りつけたと伝えられています。

髢石(かつらいし)は、悪さをするやつが娘をさらい、逃げ出した者は見せしめに首を切り落とされ、太田川に捨てられたそう。首は下流の大きな岩に流れつき髪の毛を絡ませたという。この岩に娘たちの髪が「かつら」のようにまとわりつくことから「髢石」と呼ぶようになり、暗い歴史があるようです。

蝦蟆ヶ池にある辨天堂には、縁切り橋というものがありました。


中尊寺金色堂は、世界文化遺産、国宝第1号。藤原清衡によって上棟されました。金色堂は、極楽浄土を表現しようと作られたようで、本当に神々しく在りました。また、行く途中や周りにもたくさんのお寺がありました。辺りは大きな木に囲まれ、静寂として心が落ち着きます。


金色棒のささみカツを食べました。


無量光院跡は、藤原秀衡が平等院鳳凰堂を模して造った寺院跡です。


わんこそばを食べました。2人前くらいだそうですが、このくらいなら余裕でいけました。


向かう方向は同じですが、この3人で集まれるのは今日で最後かもしれません。少しさみしい気持ちもありますが、それぞれが目指すゴールに向かって何事もなく進めたらいいですね。

そして、最後にお酒を飲みながら楽しく談話。岩手のビールと日本酒、おいしかったです。

移動…そして出会い

そういえば、ボードのひもが使った日の夜には切れてしまいました…。なのでロープで固定しました。


朝、岩手の方に移動しようと思っていると、タクシーの運転手かな?おじさんが話しかけてくれて、道や観光スポットなどいろいろ教えてくれたのですが、その情報が本当にわかりやすくて的確でした。70kmちょっとあるのに、その人の情報でほぼまかなえました。すごい。ちなみに、岩手は日本地図をイメージして、左から、山町山海ってなってるらしく、山越えは辛いって。やっぱり地元の人の情報はあてになります。

そんなこともあり、難なく岩手県突入。いよいよ10県目になりました。


柳之御所遺跡へ行きました。ここは、平安時代末の居館跡だそうで、奥州藤原氏の政庁・平泉館跡と推定されるそうです。

史跡…この前の史跡に関する自分のイメージが間違ってました。史跡はこういう感じが普通なんですね。でも、ここの方が見る範囲は狭いにしろ、いろいろとそれなりの復元が見られ、わかりやすかったです。

↑付属建物

↑厩

↑お堀

↑園池

↑井戸

↑廃棄穴(井戸)

↑汚物廃棄穴


いつも旅を進めている時に、どんなことをブログに書こうか、ということも考えているのですが、今日たまたま、旅に出る前のことを、いろんな人と定期的に飲みに行っていたことを思い出していました。最近ずっと一人で飲んでいたので、誰かと飲みたいなぁと。そんなとき嬉しいことに、以前出会った日本一周仲間から朝方連絡があり、再び出会えることができました。その日、寝床にする予定の場所を教えてもらい、自分もその付近に寝床を構えるつもりりでいたので、合流しようと決めました。

そしていざ合流し、その楽しさは計り知れませんでした。まず、新しく日本一周してる新たな仲間とも出会いました。年齢も一緒で、職種も近い。共通点が多くて、勝手に親近感が湧いていました。ちなみに、昨日見かけたのはやはり、その人たちでした。

合流してからは、3人で温泉に入り、2人は自炊をしていたので、そのスパゲッティをご馳走になり、お酒を飲みながら談話をしました。日本一周をする人への定型的な質問や会話から、ちょっとふざけた話やゲーム…。何気ないことだけど、楽しい。居心地がよかったです。こういうのって、なんか友達とキャンプをしに来てるみたいでウキウキしますね(笑)

さらに、偶然にも近くて休憩していた自転車での日本一周仲間が現れ、少し話せました。

こんなにも仲間がいるんですね。勇気づけられます。

また、久しぶりに友達から電話があって、笑い話や優しさに触れられて、励みになりました。

楽しんでいるうちに、時間が経つのはあっという間で、気づけば日をまたいでいたのには驚きました。一緒に過ごして、やっぱり一人で食べるご飯よりも、また、一人で飲むお酒よりも、誰かと一緒の方がおいしい。

石巻の現状

これから、被災地のことに関しては、別で書くことにしました。
宮城の通った場所や観光した場所、門脇小学校跡、大川小学校跡などを見学しました。当時のことを思い出したくない方もいると思いますし、自分の文章の書き方で気に触ることもあるかと思いますので、見たくない方は飛ばしてくださいね。


通り道にて…
こっちの方でもまだ、放射能の土壌整備をしていました。また、津波の被害は想像を遥かに絶しました。福島の原発事故付近は自転車で通れなかったので見ませんでしたが、同じような感じなんですかね…。


○堤防

↑壊れた堤防を工事していました。


○雄島

↑津波の高さ、軽自動車のてっぺんまで来てます。

↑案内看板もおられておました。


○瑞巌寺

↑壊れたところや折れてしまった木など、修復や復興の工事をしていました。


○日和山公園
〈震災前〉

〈現在〉

〈震災前〉

〈現在〉



↑公園付近では、まだまだこういう感じが多く残っていました。


○門脇小学校跡
高さ6mを超える津波に襲われ、その後の火災で校舎が燃えてしまいました。生徒は裏山に避難し、助かる子が多くいました。



https://news.yahoo.co.jp/byline/katoyoriko/20160311-00055291/
↑こういうの載せていいのかな…?(もしダメなら消すので教えてください。)この記事を門脇小学校跡に行ったあとに読んだのですが、衝撃が大きかったです。もし時間があったら読んでみてください。


○大川小学校跡
まずは現状から…


震災時は…
この小学校は、河口から約5kmも離れているところにあります。しかし、北上川を河口から約5kmも津波がさかのぼり、小学校の屋根を越えたそう。

当時、そんなことが起こるなんて知らず、避難する際に、裏山ではなく川にかかる橋に逃げてしまい、多く児童が亡くなり、行方不明になってしまいました。

震災時のマニュアルはちゃんとあったと思いますが、一人ひとりの把握不足や、突然の出来事にパニックになって冷静な判断が出になかったんだと思います。
ここも廃校となり、負の遺産として残るので、今回のことを忘れず、亡くなった方のためにも今後に活かせるようにしたいですね。
震災時対応については、この地域だけでなく、すべての場所でしっかりと確認し、把握すべきだと思いました。
特に、幼稚園や保育園、学校、施設、病院などの命を預かる場所では必ず。今回のようになってからでは遅いんです。
また、法人が同じだからと、他のところとまるっきり同じマニュアルにするのではなく、その地域や環境にあった対応や行動を、みんなで考える必要があり、また、なーなーに避難訓練をするのではなく、しっかりと、真剣に取り組んで欲しいと願います。
以前も同じようなことを書いたかもしれませんが、あの日震災があって、自分住む神奈川でも大変なことはありましたが、最も被害が多い地域のことは、正直、ニュースなどでたまたま見た情報でしか知ろうとしてませんでした。また、本当に申し訳ありませんが、どこか他人行儀だったと思います。
だからこそ、7年越しではありますが、今回の旅で実際に行き、見て、触れて、感じることができてよかったです。


そして、このブログを書き終わる寸前に、「大川訴訟、仙台高裁より、震災前の防災体制の過失を認定」とタイムリーなことをネットニュースでやっていました。自分の最愛の子がと思うと、誰かを責めたくなる気持ちはわかります。自然の現象になんて到底当たれないから、それが学校側に。責めていないと押し潰されそうになるだろうから。親も親で、こんなことしたって帰ってこないことは当にわかっているはずです。でも、もう今更やめられないのもあるんだろうな。
また、三つのテレビ局が、主材で撮りに来ていました。当時の学生もいました。