日本一周の旅〜カルぺ・ディエム〜

元保育士が、自転車で日本一周します!

福島観光②

はじめから観光してから移動という予定にしていたので、日新館の開館時間が9時ということもあり、ゆっくりめにスタートしました。

會津藩校日新館→猪苗代湖→野口英世記念の順で回りました。


はじめは會津藩校日新館へ行きました。

5代藩主松平容頌の頃は、会津藩は財政難で多くの借金をするなど窮乏していました。ここで田中玄宰に藩政の改革をするよう進言し、その中でも教育に力を入れて底上げしようという考えから、日新館のきっかけになったそうです。

ゆくゆくは戊辰戦争の激化で一時閉鎖し、臨時の病院として使われ、また、白虎隊に所属していた人はみんな日新館の生徒で、ここから出陣したようです。

日本最古のプールというのもありました。しかし、もう使われていないので当然、だいぶ濁ってました(笑)

保育園や幼稚園で教えていたようなことも、ここで勉強したそうです。


次の猪苗代湖は、野口英世記念館へ行く際に通りかかるので見ることにしました。すごく広くて奥が見えませんでした。こんなに大きいなら日本何番目なんだろうと思って調べたら、4番目なんですね。通りで大きいはずです。

白鳥とカモがたくさんいました。


最後は野口英世記念館です。野口英世は1歳の時、両親の農作業中に、囲炉裏へ落ちて左手の指が全部くっつく大やけどを負ってしまいました。母のシカは、自分の不注意からと悔やみ、将来は農家ではなく学問で生計を立てられるよう、一生懸命働き、学校へ通わせました。

野口英世の優れた学力は、教頭の小林栄の目にとまり、学費を支払ってくれた、英世にとって生涯の恩人になります。(以前書き忘れていましたが、恩師小林栄のことを父と呼び、彼の姉が末廣酒造に嫁いだことで、末廣家は親同然であることから、度々訪れた、というつながりがあるそうです。)

15歳に左手の障害について書いた作文がきっかけで、小林栄やクラスメイトからの募金が集まり、手術を受けられ、左手の自由を取り戻しました。ここで医学の素晴らしさを実感し、医師になることを決心したそうです。

毒蛇、梅毒スピロヘータ、黄熱病の研究をし、その功績が残り、最後は志半ばで自身も感染し、命を落としました。

周りにたくさん助けられ、自分自身も、アメリカ医学界では「実験マシーン」「日本人は睡眠をとらない」などと揶揄されるほど相当の努力をした彼のことを見習うべき点はたくさんありますね。

長く書きすぎました…。

ちなみに、途中いた野口英世ロボットが、リアルで少し怖かったです(笑)


お昼ご飯です。

↑納豆揚げ


その後二本松方面に向かったのですが、地図から見るに向こう側へ行くには山道だと思って覚悟を決めていたのですが、野口英世記念館で改めてルートを聞いてみると、ほぼ平地で、むしろ下り坂だとのことです。実際通ってみても下りがメインで非常に楽な道のりでした。それだけ高いところまで来てたんですかね。


↑こっちの方はまだまだきれいに咲いてました。


予定してた到着時刻よりだいぶ早く着いたので、汚れていたチェーンの洗浄と注油をしました。きれいになった状態を見て、それまでの汚さに驚きました。今度時間のある時に、全体的にもっとしっかりと掃除しようと思います。

福島観光

昨日一日ぐーたらしていたので朝が辛かったです(笑)本当は、早めに起きて~とか思ってたんですけど、眠気に負けてしまいました…。結局、鶴ヶ城の開く時間ちょうどに着けるくらいの配分で行動しました。

しかし、昨日できなかった分、今日は存分に観光楽しみました。鶴ヶ城(若松城)→麟閣→御薬園→野口英世青春通り(洗礼の地、末廣酒造嘉永蔵など)→飯盛山→白虎隊記念館→会津武家屋敷。こう文字に起こしてみると、本当にたくさんのところに行けたので、自分でも驚きです。


鶴ヶ城は、なんかはじめての気がしないような作りでしたが、さすがにどこかしらと被っているんでしょう。

見どころもあり歴史の流れが目まぐるしく、盛りだくさんでした。また、ちょうど戊辰戦争から150年ということもあって、力を入れていたんだと思います。

天守閣の5層からは、白虎隊が自刃した飯盛山も(後ろにある大きな山と被っていますが、真ん中辺りにあります)見ることができました。眺めも最高です。

ふと携帯を見て、2時間いたと知った時には絶句しました…。予定では1時間くらいのはずがゆっくりしすぎました。


麟閣は、蒲生氏郷が、千利休の子である千少庵を茶道振興のため滞在させていたときに建てた茶室。こういうところで気持ちを落ち着かせて、好きなことをすると時間を忘れそうですね。

作り物かと思うほどきれいに咲いていました。


御薬園は、蘆名盛久が別荘として建て、後に保科正経が領民を疫病から救うために園内に薬草園を作り、いろいろな薬草の栽培が行われていたことから名付けられたそうです。

来てみて、やっぱり時期って大切だなぁと。


辺りを散策していたら、日新館跡を発見しました。


昼食です。ソースカツ丼。


野口英世青春通りでは、地図看板にいろいろ説明書きがあったのですが、正直なところちょろっとあるだけでした。広場には銅像。洗礼の地もただ名前の看板があるだけ。

でも、最後に行った末廣酒造は、時間帯で内部を回りながら説明してくれ、これはよかったです。最後に通さた大広間には、松平容保、徳川慶喜、野口英世の書が掲げられていて、思わぬ形で偉人の足跡に触れられました。

↑松平容保

↑徳川慶喜

↑野口英世


飯盛山と白虎隊記念館は、白虎隊の歴史が多く記されていました。

白虎隊の自刃…。第三者に立っているからこそだと思いますが、なんで?って思っちゃいました。でも、敵から追われていて、生死を争っている中、冷静な判断ができるのだろうか。頼りの鶴ヶ城が燃えて落城しているように見えたら、そんな結末になるのも仕方ないのかもなとも。でもやっぱり、災難だった、と思ってしまいます(こんな一言で終わらせていいようなことではありませんが…)。

一命を取り留めた飯沼貞吉も、多くは語らなかったと書いてあったが、語らなかったんじゃなくて、語れなかったんだと感じました。辛い過去であり、あの時の光景が見間違いだなんて自刃した19名のことを思うと悔やまれないだろうし…。こう言っては申し訳ないが、命を救われて、嬉しく感じたのだろうか…?なぜ自分だけ?なんて自分を責めてもおかしくないですよね。

↑さざえ堂。江戸時代の庶民は、お金も時間もなく、なかなか参拝で巡れなかったのですが、その夢を叶えるべくでき、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができると言われたそうです(これも聞き耳立てたガイドさん情報です)。いや、それにしても高かったです(笑)


会津武家屋敷は、西郷頼母の屋敷や旧中畑陣屋、数寄屋風茶室、藩米精米所などが集まった場所です。

見学していて、西郷四郎が西郷頼母の養子であったことにとても驚きました。西郷四郎と言えば、講道館四天王の一人、山嵐の使い手、姿三四郎のモデルとして有名なので、ここでつながるかと、やっぱり歴史は奥が深くておもしろい。


↑黄色い桜。調べたらウコンザクラと言うそうです。


そういえば、今日は全体的に観光ツアーの団体さんが多かったです。閑散とせず賑やかで、ガイドさんからの情報が時折聞こえてくるのでいい点もあるのですが、自分のタイミングでゆったりと見れる方が自分に合ってるんだと感じました。


そして、観光する場所が多かったのは嬉しいのですが、写真を撮りすぎました。600枚以上撮っていて、選ぶのと整理するのでだいぶ時間がかかってしまいました。

一日のんびり

今日は日本一周をスタートしてからはじめての休憩。

本当の予定は観光でした。しかし雨が降っていて、移動予定なら雨でもゆっくりと進められたのですが…。その中カメラを出し入れして、もし壊れたらと思うと少し怖かったのでやめました。これまでがんばって進んできた分、今日は休みの日。明日以降に向けて力を蓄えようと思います。

いざ休みと言っても、少し手持ち無沙汰でした(笑)なにをすればいいのやら…。はじめはゆっくり休めるからやることをいろいろ考えたのですが、やっぱり前に進みたい気持ちが強くあり、歩めばよかったなと少し思いました。でも気持ちとは裏腹に、体をいたわることも大切なんだとも感じ、のんびりする時間も時に必要なんだなと改めて実感する一日でした。